松山城へ行く
こんにちわ。
松山城に行って来ました。
加藤嘉明が朝鮮陣での経験を元にした伊予(愛媛県)松山城ではありません。教育者で藩政を建て直した山田方谷で有名な備中(岡山県)松山城でもありません。
武州松山城です(埼玉県吉見町)!
東武東上線で約一時間で梅林が美しい東松山駅に到着。更に一時間歩きます。
途中には…
戦国時代の松山城主・上田朝直の建てた板碑を見学…
関東の奇観「吉見百穴」を見学…
地下には大東亜戦争の中、掘られた軍需工場跡の洞窟があります。
観音様にお祈りします。
さて、ここまでの画像にある共通点があります。何かわかりますか?
正解は越後製菓…ではなく、どの画像にもふんだんに石が含まれています。この地域は石材が豊富なようで、道端の至るところに石仏・お地蔵さま・観音様・板碑がありました。
まあ、肝心の松山城には石垣はないんですが…最初に作られたのが室町時代で、石垣のは作られませんでした。
実際、埼玉県の比企地域は「土の城」が沢山存在し、杉山城・菅谷館・小倉城・松山城など土の名城が沢山存在しています。「比企城館群」として国指定の史跡群として登録されています。
さて、この日はあいにくの雨、傘が面倒なのでレインポンチョを着て、雨中行軍を敢行しました。幸い、小降りなので気持ち良かったです。
広く造られた三の曲輪(くるわ)
曲輪と曲輪を深く広く隔てる空堀。
土塁をボンヤリ歩いてると、鉄炮を撃たれます。
本曲輪…本丸というと、分かりやすいですかね。
頂上からの眺めや良し!
この城は河川交通と陸上交通を抑える重要地点であり、数多くの激戦が繰り広げられてきました。
中でも永録6年、反・北条を掲げる太田三楽斎が擁する七沢七郎は扇谷上杉の当主として抵抗を四年に渡って続けていましたが、攻めあぐねた北条氏康・氏政親子は甲斐の武田信玄に援軍を頼み、総勢五万の大軍で攻めて水の手を断ち、開城させることに成功しました。
北条方に身柄を捕らわれた七沢七郎のその後の消息は不明ですが、自害させられたものと思われます。
太田三楽斎は越後の上杉謙信の援軍と共に目の前まで駆けつけていましたが、あと一歩及ばず。
面子を潰されて怒り狂った謙信は七沢の二人の息子の首をはね、更に周辺の城を立て続けに攻め落として北条・武田に決戦を仕掛けますが、北条は松山城に籠り、武田は甲斐に帰国して、決戦は未発に終わりました。
その後、豊臣秀吉の関東征伐で松山城は攻め落とされ、戦後に徳川の城になりましたが、わずか10年ほどで廃城になりました。おかげで遺構がよく残っているのですが…。
城巡りを終えて駅前に戻るとお昼。
東松山名物の焼きとんで「どうもすみません!」…その「ひびき」ではないですね。
焼きとんやキャベツに辛味噌を付けていただくのが、この地域のスタイル。マイルドな程よい辛さで酒…ドリンクがすすみます。
焼きとん六本セット千円、キャベツ二百円、ドリンクは…まあ普通の値段でした。
お腹いっぱいでごちそうさまでした!
オマケ
皆の衆にはお土産買っといたからな!また休み明けに会おう!