銅像のこと
こんばんわ。
ソレガシのブログを読んで頂いている皆の衆はお気づきかもしれないが、武将の銅像の画像を使っている。
以前、「サムライ銅像研究会」という名前で日本全国の武士・武将の銅像を紹介する地下活動をブログで行っていた。今も検索すれば、多数の駄記事が見られるはずだ。
色んな銅像を見て頂こう。
住友は江戸時代から伊予(愛媛県)国で別子銅山を経営し、大儲けしてきたので、明治28年に国に恩を返したいと東京美術学校(東京芸大の前身)に依頼し、高村光雲をはじめとした五人の芸術家により完成された。
このポーズは、後醍醐帝が伯耆の船上山から還御される際に出迎えた正成公が帝の乗り物を見つけて、馬の手綱をぐっと引き寄せた所。
かつて、東京都庁が有楽町にあった時、門前にあったものである。
道灌公の銅像の多くは狩衣姿だが、山吹伝説に基づく。
また普段から狩りにことよせて領内を隈無く巡ることで非常時の合戦に対応しやすかった、という側面もあった。
信長公の銅像では最も有名だと思う。その視線の先に清洲城の模擬天守閣🏯があり、更に正室・お濃の方の銅像と見つめあうように向かい合っている。
ソレガシが銅像好きになったきっかけ。格好いいの一語に尽きる。
だがこの銅像は二代目。初代は大東亜戦争の物資供出に出征されたが、ばらされた所で戦争が終結し、頭部のみが仙台市博物館の裏庭に飾られている。
戦国時代、屈指の戦術家といわれ、朝鮮征伐ではその勇猛さから「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれた。
関ヶ原合戦では西軍であったが、東軍勝利が確定した後、わずか千たらずの軍勢で東軍十万に突撃し、徳川家康公の真ん前を通り抜けて薩摩に帰還した。
かつて先生にインタビューしたことがあり、先生は「その人物が最も輝いたその瞬間を切り取って彫刻を製作してきました」と教えていただいた。ソレガシが最も敬愛する彫刻家である。
熊本県人が敬愛して止まない加藤清正公。市内を歩くと、濃厚なその愛を感じざるを得ない。
彫刻家は、長崎の平和像で有名な北村西望先生。
じつは同じ銅像を東京でも見ることができる。吉祥寺の井の頭公園の奥に「彫刻園」がある。かつて北村先生のアトリエがあったが、先生が遺言で『死んだら東京都に寄付してくれ』と言い残したので現在も先生の作品を観賞できる。
かつて湊川で足利尊氏と新田義貞・楠木正成らが決戦し、楠木正成公は湊川で自害された。
この画像のように、馬の四つ足の一部が浮いていると、非業の死を遂げた人物とされている。
まあ、あんまり興味ないかもしれんけど、ソレガシの一人語りだからいいのだよ。
あ、何か喉がいたいから出陣できんかも。