山中常磐物語
こんにちわ。
前回、関ヶ原古戦場を紹介しましたが、古代から「不破の関」が置かれ、人・物の往来が頻繁な所でした。現代も多くの企業の物流センターが置かれ、関ヶ原の重要性はいささかも変わることはございません。
大谷吉継公の陣地跡周辺は古くは山中村と呼ばれており、歴史上のエピソードに事欠きません。
今日はその中の一つをお送りします。
源平合戦で活躍した武将・源義経の生母・常磐御前のお墓が今もなおあります。
源義経の父・源義朝は平治の乱に敗れて亡くなります。常磐御前は牛若丸ら三人の息子を助けるため、平清盛にその身を差し出しました。性的に…
(平清盛 日本昔話「牛若丸」より)
牛若丸(義経の幼名)は寺に預けられて密かに武芸・兵法修行に明け暮れ、やがて出奔して奥州に逃れました。
常磐御前はその事を知り、息子会いたさに都を旅立ちます。不破の関辺りで宿を求めますが、その晩、山賊に襲われ、金品を強奪されて命までとられてしまいます。
一方、牛若丸は奥州で充実した日々を送りますが、都へ旅立ちます。旅の途中、不破の関辺りで墓の前で悲しむ老夫婦を見かけた牛若丸は何となく気になって事情を聞くと、なんと母・常磐御前が弔われているではありませんか!牛若丸は腰の刀の柄を握りしめ、復讐を誓います…。
それを絵巻として描いたのが「山中常磐物語」、現在は熱海のMOA美術館に収蔵されています。
右の少年が牛若丸。
後の八艘飛びを彷彿とさせる機動力で山賊をあっという間に倒し、生き残りは簀巻きにして近くの川に流して全員討伐して、めでたしめでたし…というのが物語の粗筋。
絵巻を描いたのは岩佐又兵衛、江戸時代初期の絵師で、実は織田信長に反旗を翻した荒木村重の息子という複雑な家庭環境の出身です。絵は又兵衛が死に別れた母への複雑な思いを激しい情念と超絶技巧で描いた日本美術の大傑作です。ただかなりグロテスクな描写なので自己責任で見てください。
また又兵衛は浮世絵の元祖とも呼ばれております。
源義経…日本屈指の軍事天才は母への思いを胸に秘めて戦っていたのかもしれません…。