枡形城跡 訪問
ある休日、稲城に行くために小田急に乗って登戸で降りて風景を見ていると、ソレガシの史跡センサーがビックンビックンと反応した!
駅前の地図を見ると…
来たー!城跡!ソレガシ、知らないでござる!
行くしかないでござる!駅前の一本道を歩く、歩く、歩く!
神様!仏様!稲生さま! 昭和世代しかわからん!
アナ○さま!そちらでいたす時は、女性が痛がらないように気を付けるのが、紳士のたしなみ!
まあ、くだらぬことはほおっておいて
生田緑地は初めてきました。生田でイク、イク、イッチャウー!
しばし森林浴しながら登ると…
攻め落としたー!枡形城跡!
あいにくと展望台は閉鎖中。広場を隅々まで歩くと…石碑があった。
内容をざっと…鎌倉時代は源頼朝の腹臣・稲毛三郎重成の城がありました。室町時代には、山内上杉と扇谷上杉の戦争があったので伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)が布陣。駿河の今川氏親(早雲の甥)も合流。
戦国時代の永禄12年には、武田信玄の相模侵攻に対抗するため、国人衆の横山式部少輔弘成が築城。
まあ、関東だから「土の城」だけどな!石垣と天守閣があるのが城じゃねーからな!城は街道と河川押さえる要地に築くのが城だからな!「難攻不落」とか言っちゃってる奴は素人!
すこし冷静になろう…閑話休題。
石碑には書いてないが、後醍醐帝が伯耆・船上山に挙兵された時、上野(こうずけ)国(群馬県)で旗揚げした新田義貞公が関東の武士を率いて鎌倉に攻め上がった時、城跡の北にある分倍河原で執権北条方の大軍を撃ち破った。
勝った勢いのまま、新田の軍勢はこの城跡の脇を通り過ぎて南下したはずだ。
北を眺める。馬蹄の轟きが聞こえたような気がした…。
久々にすっきりした。新型肺炎で我慢の日々だったからな。城跡は歴史好きにとって、ディズニー好きのディズニーランドやシーのような価値があるのだよ。
アトラクション?そんなものは脳内で勝手に考えるんだよ。
地図を見ながら史跡を廻る時、女を抱くよりも濃厚な快楽物質が脳内に分泌されているのだよ。
まあ、セ○レは絶賛募集中だが。
しばらく歩いて、同僚の最寄り駅からまた電車にのりました。何もねーわ。
稲城で何を見たか?また次回