織田信長は残酷なのか?

  織田信長は希代の英雄だが、合戦で多くの人を殺した残酷な人物である…という評価がある。

 


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 ソレガシはそのように思わない。信長は若いときから、殺らねば殺られる敵に囲まれていたし、比叡山一向一揆のような宗教勢力を叩き潰しておかなければ、後世に禍根を残しただろう。

 

 それはさておき、信長の残酷性の証拠として挙げられるエピソードに、天正二年(1574)年正月、「馬廻り衆」という側近達だけに、前の年に滅ぼした越前(福井県)の朝倉義景、近江(滋賀県)の浅井久政・長政親子の髑髏に漆を塗り込めて、金泥を重ね塗りした「ハクダミ」と呼ばれる物を披露して酒宴を開いたということがあった。


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 信長が朝倉や浅井を滅ぼしたのは前年、天正元年(1573)の夏。翌年の正月まで少なくとも9月からの4ヶ月はあった。

 武士には手柄の証拠として首をとることはあったが、髑髏にして漆がけすることはなかった。

 

 ソレガシがこれまで調べた中で、真言宗には「徳」の高い高僧の死後にその髑髏を処理して保存する習慣があったそうだ。

 だがそこで壁にぶつかった。その証拠はどこにいけば見られるのか?そもそも公開出来ないものではないか?

 死期の迫った僧侶が自ら地下に潜り、断食しながら念仏を唱えて即身仏になるという事例もあったが、ソレガシの調査は長らくそこで壁に阻まれていた…。

 

 だが最近、久しぶりに紀伊国屋書店に行った時にある本を見つけた。


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 「邪教立川流

 平安時代後期、京都・醍醐寺の僧侶の仁寛が始めた流派で男女の性的結合(つまりセックス)を用いて仏教の奥義を解説している。詳細は難しすぎてソレガシにはわからないが、そのえげつなさから長らく排斥されてきた。

 だが、鎌倉末期の後醍醐帝の側近にも立川流の僧侶はいた。

 いわば、日本の裏に密やかに続いてきた教えなのだろう。

 本には「髑髏は本尊である」と書かれていた。これが一つの突破口になるかもしれない。

 

 また織田信長は若いときから仏教と関わりが深い。信長が美濃・稲葉山城をおとした後、僧侶の助言に従って「岐阜」城と変えた。今も岐阜県と名が残っている。更に、禅僧の間では室町時代から岐阜と呼んでいたという。

 

 歴史にはまだまだ奥深い謎が隠されている。ソレガシは死ぬまでそれを追い求めていくだろう