地図アプリに見る江戸城

 こんばん和田義盛!(鎌倉幕府 初代侍所別当)

 

 更新が滞っておりましたが、最近新しい地図アプリを導入したことでテーマができました。地形の高低がわかる楽しい地図で江戸城を見ていきたい🏃‍♂️🏃‍♀️🚶‍♂️🚶‍♀️

 


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 まずはよく見るグー○ルマップ。千代田区台東区新宿区など見慣れた周辺図。

 これを地形の高低差で見ると…
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 江戸城から東は平たい土地だとよくわかりますね。昔、日比谷は遠浅の海で、漁村がありました。

 

 もうすこし広域で見てみましょう。


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 上野や浅草まで含まれます。武蔵國(東京都と埼玉県)の古代からの中心地は府中ですが、浅草には浅草寺(創建平安時代)があり、川を遡っていくと石浜神社(創建不明)やスサノオ神社(創建奈良時代)など歴史のあるお社がございます。


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 地形図におとしこんでみました。江戸城は麹町台帳の突端にあります。平安時代に江戸氏が館を設け、室町時代には太田道灌公が江戸城を構えます。

 当時、享徳の乱で京都の将軍家と鎌倉から古河に拠点を移した足利成氏が対立していたので、防衛ラインをひくために河肥・岩槻・江戸の三城が築かれました。伝承では全て道灌公が築いたとありますが、そんなわけはありません。関東管領山内上杉家と武蔵守護・扇谷上杉家が総力をあげて築きました。

 

お馴染みの江戸城


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 道灌公の時代は現在の皇居エリアは含まれず、本丸があったエリアだけと言われています。「子城(本丸)・中城・外城の三つから成る連郭式の城であった」そうな…。

 


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 南側の富士見櫓がある辺りに、道灌公が政務や接待など行った「静勝軒」(支那兵法書から採用した言葉)があったようだ。つまり南側が城の中心。

 北の北桔橋門から軍勢が出撃していったそうな。つまり江戸城は北や東に防御の顔を向けているのがわかる。南は遠浅の海なので、当時の漢詩を詠む禅僧たちからも絶賛された眺望でした。

 

 道灌公が江戸城の絶景を帝から尋ねられて(和歌で)、返した歌。

 「我が庵(いお)は 松原続き 海近く 不二(富士山)の高嶺を 軒端(のきば)にぞ見る」

 見事な情景描写ですね!

 

 北東の平川門あたりに平川村があって、そこに日本のみならず大陸からも物資が離合集散する所で大いに繁栄したらしい。

 実際、道灌公は常時三千人の軍勢を抱えており、彼らは食料生産や商いに従事しない専門の傭兵隊であった…言い切るのは危険だが、武人を常に三千人抱えているのは相当な財力がないと無理で、当時の品河湊(品川)を差配した有徳人(長者)・鈴木氏(紀州出身)とも道灌公は懇意にしていた。

 道灌公は軍勢を率いて西に東に、享徳の乱長尾景春の乱を戦い抜き、現在も「関東の名将」と讃えられている。

 また「足軽軍法を考え出した」と云われているが、実態は不明であり、道灌公の前の世代から存在した言葉である。足軽軍法とは戦術ではなく、諸国から流れてくる溢れ者を動員して軍兵(ぐんぴょう)に仕立てあげる制度であった。

 

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 (千代田区有楽町 東京国際フォーラムにて)

 

 以下、ソレガシの夢想が混じるが江戸城を地図で見ると、海軍の拠点に相応しく思える。

 実際、江戸末期、幕府海軍の最初の拠点は築地に置かれたし、隣り合うように大砲の試射場が置かれていた。


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 歴史にifを持ち込んではいけないが、江戸時代にスペインやポルトガルの世界を分断する条約やオスマントルコ帝国を破ったレパントの海戦、悲惨な宗教戦争三十年戦争の実態が伝わって、危機感を覚えた幕府が全国から集まった大名や旗本、御家人の子弟を集めて士官学校や海軍を創設し、非常時に備えていれば近代史は別の絵が描けたのかな、と思う。

 お台場を築いた韮山代官・江川太郎左衛門英龍の構想はダイナミックで、お台場を作る他に海軍創設も視野に入れていた凄い男だったが、そんな天才を地方の代官としてしか使えなかった幕府は、時代の荒波に打ち勝てなかったのは当然だったのかもしれない…。

 

 歴史は楽しいぞ!本を読んで満足しないで、調べて現地に行こう!