武士を繋ぐ「絆」の物語
こんにちわ。
皆の衆は、日本を特徴づけるものは何だと思われるでしょうか?ある方は伝統的な織物や装束、またある方は能や狂言、いやいや茶の湯に始まる懐石料理だと、色々な意見があると思います。
どれも正解だと思います。とはいえソレガシは別の見解を提示します。
それは「武士の存在」です。800年以上、政治や軍事の主導権を握りつつ、皇室を奉り、「武者の道」「武士道」と呼ばれる独特な精神文化を築いてきたからこそ、日本は欧米の植民地化を逃れ、大東亜戦争に敗れるも世界の植民地が独立していく契機を作ったのです。
本日はその武士の絆を描いた物語を語らせて頂きます…。
戦国時代、天才的軍師と令名を慕われた
竹中半兵衛重治。
竹中半兵衛は美濃(岐阜県)の斎藤家に仕えていましたが、愚行を繰り返す主君を諌めるため、守りの堅い稲葉山城(現・岐阜城)をわずか十数人の手勢で占拠して主君を追い出します。周辺の国からは誘いが来ますが、キッパリ断り、城をまた主君に返して、自身は近江(滋賀県)に転退します。
その後、再三の誘いについに織田信長に仕え、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に与力武将として付けられます。そこで秀吉のもう一人の知恵袋・黒田官兵衛と出会います。
二人の活躍は別の本などに譲りますが、半兵衛は官兵衛の息子・長政を、官兵衛が織田信長に逆らったという疑惑から命をかけて守りました。
後に官兵衛はその事を知り、亡き半兵衛に感謝します。また長政は半兵衛から兜を贈られていました。それが銅像や肖像画に見られる板を貼り付けたような「一ノ谷兜」です。
長政は兜を大事にして肖像画でも描かせています。
長政は秀吉の武将として成長し、活躍します。とはいえ戦場を一癖も二癖もある男達を率いて駆け巡る猛者ですから気も荒く、ある時、秀吉の元で勇猛を誇る福島正則と喧嘩してしまいます。
そして仲直りの証に、二人は互いの兜を贈りあいます。
福島正則は大水牛脇立兜を贈り、長政は半兵衛から受け継いだ一ノ谷兜を贈ります。
後に、二人は関ヶ原合戦で東軍の勝利に貢献し、徳川家康に始まる260年の泰平の礎となりました。
さてその福島正則…大の酒好きで、酔っぱらっては家臣を困らせたり、薙刀を持った奥方に追いかけられたりと数々の逸話を現代に残しています。
ある時、長政の家臣・母里太兵衛(もり たへえ)が主君の遣いで福島正則を訪れます。公務を果たした太兵衛に正則はいいます。
「太兵衛よ、酒が好きで有名 らしいな。この大杯でワシの酒を呑め」と迫ります。太兵衛は困りました。酒は好きでよく呑みますが、失敗も度々しており、官兵衛や長政にも度々怒られ、公務では酒を飲まない、と誓いもたてさせられました。
ためらう太兵衛に正則は
「黒田の侍は腰抜けか?」と煽ります。これには太兵衛もカチンときました。戦場往来の武士は御家の面子を大事にします。腹をくくった太兵衛は戦場鍛えの大音声で
「承った!その小さな杯でよければ呑んでみせましょうぞ!かわりに見事、のんだ暁には太閤殿下より拝領した名槍・日本号を賜りたい!」
さあ、正則も内心慌てました。大事な御家の宝を質草にしてしまう訳にはいきませんが、挑まれた勝負、退く訳にもいきません。
「あっぱれ、よういうた!ならば呑み取ってみせよ!」と一抱えもある大杯に酒をどんどん注がせます。そしてなみなみと注がれた酒を太兵衛、負けてなるものかとグイグイと呑んで、飲んで、のんで…飲み干してしまいました!そして名槍・日本号を呑み取ってしまったのです。日本号は今も福岡市立博物館に博多市民の誇りとして展示され、近年では
「刀剣乱舞」というゲームでも擬人化されています。
また民謡「黒田節」はその顛末を唄ったものです。
いかがでしたでしょうか。武士の絆が世代を越えて繋がり、また現代にも伝わる…これこそが歴史の醍醐味の一つなのです。
🎵酒は呑め呑め 呑むならば
日の本一の この槍を
呑みとる程に 呑むならば
これぞ誠の 黒田武士~♪
オマケ