山中城 ロングver.

   こちらのブログを書き始めた際に山中城を試し書きしましたが、短すぎたので書き直します。

 


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 こちらを訪れたのが2015年の冬…城跡探訪にはベストシーズン。

 新幹線で静岡県三島駅で降りて、駅前でバスに乗り国道1号線を東へ一時間…


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 (地図画像はゼンリンの地図アプリからです)


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 時は天正18(1590)年、関東の雄・小田原の北条が邪魔な豊臣秀吉は北条を罠に嵌めて関東征伐の口実を得て、大軍を繰り出して大挙押し寄せてきました。

 小田原の北条氏直公は豊臣秀吉に臣従して合戦を避けたいと思っていましたが、事ここにいたっては一戦を遂げずば武士の面目を保つこともできず、開戦に踏み切ります(抵抗もせず降伏すれば北条の名誉が地に落ちるのみならず、北条に仕えてくれた人々の再就職にも差し支えるので無条件降伏は平和主義者の寝言)

 

 元より北条家では法律を整備し、民草の生活安定と向上を政策に掲げ、城と城のネットワークを構築して防御を重視した国造りを行うことでかつて武田信玄公や上杉謙信公の侵略を跳ね返して痛手を負いつつも力強く立ち上がってきました。

 しかし今回ばかりは数が違います。かつて経験したことない三十万もの大軍が関東目掛けて四方より押し寄せてきます。

 ただ、大軍は物資・食糧の消費も膨大です。北条は手強く抵抗して時間稼ぎで敵軍がひくか有利な条件での降伏を狙っていました。

 その為に整えられ続けてきたのが小田原城を筆頭とした支城ネットワーク。山中城もその一つにして、北条家の築城術の粋を込めた鉄壁の城塞でありました。


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 勾配のきつい切り岸。


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深い空堀。などを乗り越えても…


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広大な武者溜まり。


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複雑な障子堀。


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見上げんばかりの郭(くるわ)など手強い防御施設が攻撃部隊を手厚く『おもてなし』してくれます。

 事実、北条は四千人の精鋭を配置し、指揮官に北条の一族・氏勝を配置しました。用意は完全だったはず…でした…。

 しかし現実は残酷、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次率いる七万の大軍による味方や指揮官の死すら厭わない飽和攻撃に山中城の守りはわずか半日で崩壊し、小田原から派遣された北条氏勝は実質的指揮官の松田康長に逃され、見届けた松田らは本丸で自害します。


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 南無…

 

 なお、この時の戦闘で豊臣軍の指揮官・一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)が鉄炮により戦死しています。現代の軍隊にあてはめれば、連隊長か師団長クラスで、豊臣軍で唯一亡くなられた指揮官クラスです。御冥福を祈りましょう。

 


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 城跡内には樹齢650年のアカガシが聳えています。古木はただ佇み語らず。


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 美しい牡丹も咲いていました。


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 ふと見上げると、富士の御山や足柄連山が美しく聳えています。人の行いのなんと儚いことでしょう。

 陣没された方々の冥福を祈りつつ、山中城を後にしました。

 

おまけ


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 前にも書きましたが、障子堀がワッフルの表面に似ているという事で一部城マニアがワッフルを持参して記念撮影が流行っていますので、ソレガシもやりました。ワッフルは美味しく頂きました、とさ…。