関東の名将 太田道灌公!
今回はソレガシが敬愛してやまない太田道灌公の銅像で代表的なものをいくつか紹介したい。
まず太田道灌(おおた どうかん)って誰?と思うだろう。分かりやすい答えは、
「江戸城を最初に築城した武将」であろう。
この銅像は有楽町の東京国際フォーラム内で拝見できる。元々、都庁があり、その門前に佇んでいた銅像。狩衣(かりぎぬ)という狩猟の装束を着られておられる。作者は朝倉文夫先生。
何故狩衣か?山吹の里伝説という話がある。
太田道灌公が狩猟に出た時、急に雨に降られ、道灌公は雨具を求めて近くの民家を訪れた。在宅していた女は、平伏して扇に山吹の花を載せて黙って差し出すのみ。道灌は困惑してその家を辞し、雨降る中、屋形に帰った。そしてその話を道灌から聞いた老臣はある歌を道灌に聞かせた
「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」
元は平安時代の醍醐帝の皇子・兼明(かねあきら)親王さまの歌。山吹の花は美しいが実がならないことから「実らない(貧しい)」ゆえ雨具すらないことを恥じて道灌に察してもらおうとした行為。その説明を受けた道灌は自らの学問の浅さを悔い、歌道への精進と政治への取り組みを決意し、後には「関東の名将」とまで尊敬される武将になったという。
これが伝説のあらまし。その為、道灌公の銅像は狩衣(かりぎぬ)姿のものがほとんど。
これは新宿区の中央公園で拝見できる「久遠の像」。伝説が道灌の若い頃の話と想定して造られている。女も若い。ただ、近寄るとディテールが粗いので少し離れて眺めよう。
こちらは東京都荒川区役所前の日暮里駅前に立つ道灌公騎馬像。御覧の通り、躍動感溢れる。古い銅像で、日暮里駅のシンボル?である。
最近、新たな銅像が追加された。
山吹の里伝説の女…もう山吹ちゃんと呼んじゃおうかな。日暮里駅前では、二体の銅像をセットで眺めてほしい。
こちらは埼玉県川越市役所前に立つ道灌公。安定の狩衣姿である。河越城も道灌公が築城した、というが実際は道灌が仕えた扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家が築いたが、道灌が有名なので築城主とされた。歴史とは、ああ無情…である。
こちらは埼玉県さいたま市岩槻区の道灌公。岩槻城の築城も道灌の功績に数えられている。銅像はかつての岩槻市役所前にあった。現在は背後の旧市役所はなく、再整備されているがまだ行ってない。また行こう。
さてせっかく岩槻に来たら、芳林寺に行こう。
武将・道灌公の姿が拝見できる。また、戦国時代の太田氏資公の座像などもあるが今回は紹介しません。話すと長いのさ…。
こちらは道灌公が非業の最期を遂げた神奈川県伊勢原市役所前の銅像。
道灌公は主君・扇谷上杉定正公の家宰として政治・軍事に活躍して支えるが、あまりの名声に定正は嫉妬し、その嫉妬心を利用した山内上杉顕定に唆されて相模国糟谷館(神奈川県伊勢原市)に道灌を誘いだし、蒸し風呂で入浴後の道灌を上意討ちにかけた。
永享4(1432)年に産まれた太田道灌公は文明18(1486)年、数え年55歳でその波乱の生涯をとじさせられた…。南無(T-T)
最後に道灌公の墓がある埼玉県越生(おごせ)町は龍穏寺の道灌公像を拝見していただこう。
太田道灌公…彼はあくまでも主君・扇谷上杉家の家宰(身分の高い家のことをとりしきる役職)なので、その功績は上杉諸家の威光なくしてはなし得ないものであるが、それでもその功績は光輝いており、「関東の名将」という称号が冠せられている。
これを機会に彼の生涯を追うのもまた一興ですぞ。