関ヶ原 古戦場巡り
こんにちわ。
新型肺炎による不要不急の外出自粛で、皆の衆のストレスも溜まってることでしょう。
今回はソレガシが過去、数回訪れた「関ヶ原の戦い」の古戦場を紹介いたしましょう。
(関ヶ原決戦の石碑)
時は慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)
徳川家康公率いる東軍と総大将不在の西軍、あわせて20万近い人々が戦った地、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)、古代から多くの戦いが行われ、有名なものには古代の壬申の乱、南北朝の青野ヶ原の合戦、そして関ヶ原の合戦と3つの大きな戦いが繰り広げられました。
(徳川家康 公)
(西軍の大将の1人 石田三成 公)
合戦を見守る諸国では、長期戦になるものと観測されていましたが、戦いはわずか1日で決着がつきました。
現在に伝わる関ヶ原の合戦の話は、実は江戸時代260年を通じて、幕府や諸々の大名家のエピソード、民間の物語などが組み合わされて構築され、更に近世や近代の演劇・講談・テレビドラマや映画が強調することで完成した「関ヶ原合戦物語」であり、真実は違うと研究者の間では考えられています。
しかし、その物語もひとつの歴史。否定するのは「野暮」というものです。
話が長くなるので画像を見ていきましょう。
関ヶ原町では毎年、関ヶ原合戦祭りが行われています。こちらは2010年のポスター、「北斗の拳」の作者・原哲夫さんが描かれています。徳川家康公など東軍武将は「ヒャッハー」な感じに、西軍の石田三成公などはベビーフェイスに描かれていますね。
こちらは2015年のポスター。「信長の野望」のパッケージ絵を描かれている長野剛さんが担当されました。
今年も無事、開催されるといいですね。
関ヶ原町で配られている古戦場巡りマップ。主要陣地跡なら半日もあれば行けます。
ソレガシは隣の大垣市に本陣(ビジネスホテル)を置いて、二泊三日でじっくり巡りました。
戦闘には参加しなかった池田輝政の陣地跡。目の前のラーメン屋さんが美味しかったけど、画像は残ってなかった…。
徳川家康公が最初に陣地を置いた桃配山。壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)が喉の乾いた兵士たちに桃を与えた事から「桃配山」と名付けられた。
黒地に白餅が三つ連なったのが藤堂の旗。赤地に四つ目結いが京極の旗。
福島正則 酒好きなだらしない男ですよ。あれ?酒好きのだらしない男?知り合いにもいたような…。
西軍の裏切り者の一人、脇坂安治の陣地跡。裏の山を登ると…小早川秀秋の陣地跡です。
小早川の陣地からは、関ヶ原が一望できます。この眺望にソレガシは興奮しました。
なお、小早川秀秋は合戦前から徳川家康公と通じており、単に裏切り者とはいえません。また彼を巡る両軍の動向が決着を早め、また「関ヶ原合戦物語」を作られるきっかけになったので、まさにキーマンといえます。
JRの線路を跨ぐと…
大谷吉継公の陣地跡にたどり着きます。東軍有利と分かっていたのに、盟友・石田三成公の為に参戦した公を慕って現代もその墓には花が絶えません。
右が公の墓で、左は公を介錯した湯浅五助さんの墓。墓地を整備したのは、藤堂高虎公。二人とも豊臣秀吉のもと、戦・政務の公務に活躍した同僚でもありました。
関ヶ原は平地とはいえ、時に山にも分け入ります。
「くま🐻出没注意!」
史跡巡りにも危険いっぱい!
関ヶ原開戦の石碑。
徳川家康公四天王の1人、井伊直政公が酔っぱらい…猪武者・福島正則を出し抜いて、西軍の宇喜田秀家公に鉄炮を撃ち込み、先陣の栄誉を奪います。
宇喜田秀家公。敗戦後、八丈島に流されて、83歳まで生き長らえます。
合戦終了後、東軍10万を突破して帰国した島津義弘公と愉快な武士たち。ホント、島津の歴史を読んでると「戦闘民族だな…」と思います。
石田三成公の陣地跡。三成さんは大将の一人、総大将の毛利輝元は大坂城にいました。毛利の薄汚さ、卑怯さが見てとれます。まあ、個人の感想ですがね。
合戦の膠着に業を煮やした徳川家康公は本陣を前に進めました。これこそ、総大将のあるべき姿です。
実は関ヶ原町教育委員会が発掘調査をした所、町内のほとんどで合戦の痕跡がなく、僅かに大谷吉継公の陣地跡から鉄炮玉が発掘されました。
この事から、小早川が東軍につく事を触れた事に怒った西軍が小早川の陣地を攻めようとした所を、東軍が追い付いて背後から突き崩して、あっさり合戦が終了したのではないか?と唱える研究者もいます。
いずれにしろ、物語のような劇的な展開はなかったかもしれません。
真相はいずこか…わかりませんが、今もなお沢山の人が訪れる観光地になっております。
JR関ヶ原駅。
両軍の死者の冥福を祈りましょう。
東首塚
西首塚